ハロウィンだからってイイ大人が浮かれてんな!ってコトか

今日、ハロウィンだってさ。ブサイクがブサイクなカッコして練り歩くんだろ?やっぱりハロウィンはカイ・ハンセンマイケル・キスクが居た時代が一番カッコイイよな。アルバム『Keeper Of The Seven Keys』の頃?って、それドイツのメタルバンド「HELLOWEEN」じゃん!高校時代はガッツリとジャーマンメタルにハマってたTARです。


最近になって、やっと読書が出来るような精神状態になってきた。
元々、超が付く程の活字中毒者だったのだが、大阪からの転勤のタイミングでなんとなく精神的にダウナー傾向に陥り(ココではテンション高いんですけどね)、ゆっくりと本を読むという生活が出来なかった。新書程度の軽い読み物(この前の『タモリ論』とかね)なら、なんとか読めたのだが、そこそこの厚さの文庫本となると二の足を踏んでしまい、鞄には入れて持ち歩いてても開くコトもなく数か月が経過、なんて事態に。ところがココに来て、精神的にも落ち着いてきたのか、やっと普通に読めるかな?と思い、勢いをつける意味も込めてネットでポチリコと、買わず仕舞いだった本を大量購入。


最近は昭和の”大人の男”のエッセイが面白くて、池波正太郎やら遠藤周作やら山口瞳やら、そこら辺(?)の渋い人選の本を好んでチョイスしている。
そういった人選の中でも特に面白いのが伊丹十三のエッセイ。伊丹十三と言っても、若い人は知らないか?「夏ばっぱ」コト宮本信子の旦那さんだよ。我々の年代では『お葬式』『タンポポ』『マルサの女』といった映画監督としての印象が強いけど、本人は元々海外の映画にも出演するぐらいの歴とした俳優さん。民事介入暴力をテーマにした『ミンボーの女』を撮ったコトで某広域暴力団から命を狙われ、自宅近くで暴漢に襲撃される等、かなり危険な人でもあった。オレが知ってる伊丹十三って、その襲撃後の記者会見で、ネットを被った包帯だらけのイメージなのよね。暴力団には屈しないと宣言する姿を見て「えらく男気のある人だなぁ」って思った記憶がある。
その後、写真週刊誌に不倫疑惑をスッパ抜かれ、その身の潔白を証明するために投身自殺した。というコトになっているけど、元来、そんなコトで命を捨てるような人間ではなかったとの近親者の話もあり、疑惑の自殺というコトになっている。まぁ、そんな破天荒な人だったワケですわ、伊丹十三って人は。彼の本の殆どは本人が挿絵も書いており、イラストレーター・商業デザイナーとしても活躍していただけあって玄人はだし。その挿絵を見るのも楽しみのひとつ。


女たちよ! (新潮文庫)

女たちよ! (新潮文庫)


最近読み終わった本は『女たちよ!』ってタイトルなんだけど、別に女性に対する啓蒙を謳った本ではなく、どちらかというと現代(っつっても昭和)に生きる男性の不甲斐なさを嘆き、喝を入れるような内容。語学堪能で、若い頃にヨーロッパを転々としていた経歴を持つ氏だからこそ、近年の日本男児の現状を憂いてるんだろうねぇ。もぉ、書かれてるコトひとつひとつが胸に刺さってしょうがねぇ。
例えば「死に至る病」っていう題の小文では、モテるというコトが至上の命題になっているコトを憂いてる。誰かに愛される、必要とされるコトを一番に考える。幸せは人から与えられるモノであるという考え方。それを氏はキッパリと否定している。いつか自分を幸せにしてくれる人が現れるだろうという幻想を抱いてるコトへの警鐘だね。氏曰く、モテるというコトには「現在がない」んだって。将来的に幸せにしてくれる人を探しているだけ。幸せというモノは過ぎ去った時に初めてそれと知れるモノであるから、常に将来に目を向けていると、幸せを取り逃がしてしまい、最後にはひとり淋しく一生を終える。つまり、そういう考え方は「死に至る病」であると。この文章に含まれているのは「男たるモノ、受動的な考え方ではなく能動的であれ=愛を与える側になれ」というコトと、「未来に期待するのではなく”今”という場所にしっかりと足を踏みしめて生きていけ」という2つのコトを示唆しているんだと、オレは勝手に解釈した。もぉ、胸に刻むしかねぇわ。


やっぱりね、昭和の”大人の男”ってのは、一言で言えば「粋」なんだよね。
モノの道理を知ってるからこそ、拘るトコロは徹底的に拘るんだけど、小さいコトには拘泥しない懐の深さも持ち合わせていて、モノゴトを達観しているというか、明確に”自分という軸”があって、ブレない。まぁ、そういう人の本を選んで読んでるってのはあるけど、21世紀に入っても読み継がれるってコトはその本に記された著者の思想が、時代の変遷に係らない普遍的なモノだからだと思う。オレも30代後半からちょこちょこと読み始めて今に至るけど、なかなかそこまでの領域には達しないねぇ。
是非、若い世代にも読んでいただきたい種類の本です。